講師紹介

 

おとや 

主宰・講師

 

廣畑 瞳

 


〜プロフィール〜

〈歌うことが大好き〉

茨城県土浦市に姉妹の次女として生まれる。

自衛官で厳しい父と、専業主婦の母の元で育てられる。

3歳の時に、父の転勤で栃木県宇都宮市に引っ越す。

気付いたら家にエレクトーンが有り、音を出して遊んでいた。

歌うことが好きで、歌やお遊戯は恥ずかしからずに大きな声で歌い、踊りも堂々と踊る子どもだった。

 

〈息を潜めて〉

九州育ちで亭主関白の父と、父の顔色を伺いながら過ごす内弁慶の母。

時には夫婦喧嘩も。

それを見るのは辛く、子どもながらに息を潜めて見守っていた。

母が、そんなイライラを子どもにぶつけることもあった。

 

〈人見知り〉

幼少時代は、泣き虫でよく泣いていた。

この頃から人見知りがあった。

友だちはいたが、鬼ごっこでは、走るのが遅い自分が真っ先に鬼に狙われてすぐ捕まり、

それをからかわれるので、外遊びが苦手だった。

家でお人形遊びをするのが好きだった。

 

〈ピアノを習いたい〉

宇都宮市立緑ヶ丘小学校へ入学。

自分から「習いたい」とお願いし、ヤマハ音楽教室のレッスンへ通うようになる。

最初は、グループレッスンからスタート。

もともと耳が良かったので、レッスンは順調に進んだ。

グループの人数が減って個人レッスンに変わってしまったが、2年生の頃にはグレードを

取得して いく。

そこまでで先生は3人。

特に小学校中学年〜中学3年生まで受け持ってくれた先生はとても優しく、 表現についても教えてくれた。

怒ることはなく、レッスン中あまり発言しない私に、少しずつ打ち解けられるように接してくれた。

 

〈成功体験〉

この頃は色々な成功体験に恵まれ、小学4年生と6年生で学級委員をしたり、作文公募では選出されることもあった。

文章を書くのは嫌いではなかった。

卒業式での、在校生代表の演奏隊にも選ばれた。

 

小学校時代は、名字(旧姓)が“坂東”だったので、男子からは「えーじ(板東英二)」と呼ばれることもあった。

名字の漢字を正しく認識してくれたおじいちゃん先生からは、延々と歌舞伎の話をされた。

 

〈吹奏楽部入部〉

宇都宮市立陽南中学校へ入学。吹奏楽部に入る。楽器はサックス。

ほぼ毎日練習していた。

学年ごとに上履きとジャージの色が違うのだが、下級生から同じ学年と勘違いされることがあった。

中学2年の時、父と一緒に自衛隊音楽祭を鑑賞しに武道館へ行く。

 

〈挫折〉

中学3年の半ばに父の転勤が決まり、父だけ先に赴任先の土浦へ。

私と姉は卒業まで母と共に宇都宮に残り、卒業を待って父の元へ引っ越した。

この引っ越しで受験がうまくいかず、第一志望校に落ちてしまう。失意の中、県立高校へ。

 

〈高校、辞めたい・・・〉

高校入学に合わせて、茨城県土浦市へ引っ越し。

その県立高校は、吹奏楽もイマイチ、無気力な人ばかりで馴染めず、とうとう自分の居場所を見つ けることができないまま卒業した。

一度だけ、母に「高校を辞めたい」と言ったが、「もう少し頑張ってみて」と諭された。

この頃エレクトーンも再開。

 

〈音楽隊に憧れる〉

父と一緒に見に行った自衛隊音楽隊のパフォーマンスに感動を覚え、音楽隊に入りたいという夢を描くようになった。

そのためには、サックスの技術と、公務員試験に受かるための対策が学べる専門学校へ行きたいと思った。

ところが、親に反対されて「音楽の道に進むのなら、もっと長く続けているエレクトーンで進学するなら行ってもいい」と言われ、短大の音楽科へ。

聖徳大学短期大学部音楽科器楽専攻電子オルガンコース(現:聖徳大学音楽学部演奏学科電子オル ガン専修)に合格する。

 

〈腕を上げた2年間〉

充実した2年間で腕を上げ、音楽科の定期演奏会に出ることができた。

短大2年生の時にエレクトーンフェスティバルの地区予選で入選。

 

また、授業の一環で「シリーズコンサート」があり、多ジャンルの芸術に触れることができた。この体験が、肥やしになっている。

就職活動では大手音楽教室2社を受けるが、

・元々の自己肯定感の低さ

・常に自信が無さそうにしている様子

・自分を売り込むのが苦手

このことが仇となり、失敗。

超就職氷河期だったことも重なり、他業種でも内定を貰うことはなかった。

 

〈継続は力なり〉

卒業後はどんな形態でも働かなければと、アルバイトでヤマハ音楽教室の受付に入ることになる。

卒業から月日が経つにつれ、正社員に近い雇用条件で働きたいと考え、派遣社員で畑違いの事務職に着く。

26歳の時に、事務職でキャリアアップしたいと思うようになり、調剤薬局を経営する会社で正社員となる。

この間も、ずっとピアノとエレクトーンのレッスンには通っていた。

 

〈夫の応援〉

28歳で結婚。神奈川県横浜市に引っ越す。

結婚したら家庭に入ることを望んでいたが、夫から「働き続けたほうがいい」と言われたこともあって、派遣やパートで事務の仕事を続ける。レッスンは辞めずに頑張って通った。

 

〈ピアノの先生に〉

この頃までに、エレクトーン、ピアノ、共に多数の先生と出会い、様々な指導を受けた経験から、 指導の道へ進むことを再び目指し始める。

これまでのレッスンは、曲も即興も先生に言われるがままにマネして弾くスタイルだった。

先生が変わり、上級グレードの勉強に入ると、自分で曲選び、即興演奏の課題選びをして自分で考えてくるよう言われ、レッスンのスタイルが変わった。練習したものをみていただくと、やり方について否定から入るレッスン。ただ弾くことはできるようになっていたが、ここでやっと基礎がないことに気付く。レッスンのやり方が変わったことにも戸惑い、先生に言われた通り練習しても一向に良くならず、即興演奏が大嫌いになり自信を無くす。

その後、教室を変え、新たに先生を紹介していただき、目に見える成果が表れるようになった。この先生は指導の引き出しが豊富で、多角的に見た練習の仕方や勉強の仕方を教えていただいた。

このことがきっかけで、今まで受けてきた指導に疑問を感じると同時に、何人もの先生に教わっているにも関わらず、今までにこのような指導をされる先生になぜ出会えなかったのだろう、と思いを巡らすようになった。

「ならば、自分がそういう先生になろう!」と一大決心をし、諦めかけていた音楽への道へ、再び進むこととなった。

 

〈念願のマイホーム〉

30歳 夫の転勤で地元土浦市に戻る

31歳の時についに自宅を購入。 音楽教室を構える。

33歳の時に長男を授かる。 その後、夫が単身赴任になったりと、ワンオペ育児が始まる。

次男にも恵まれ、子育てをしながら音楽教室を回す。

次男を出産後、ワンオペ育児でも家のことが回せるよう、体力を消耗しないように心がけた。その結果、10kg増量。

この頃から“ラクに~”、“時短”、“時間術”というワードに弱くなり、これらのワードに関することの研究にハマるようになった。

 

〈未来ある子どもたちへ、私にできることを考える〉

指導をしていく中で、外遊びが少ない現代っ子のリズム感、運動能力、感性を育て、より音楽性を高めるためにリトミックを取り入れた方が良いか、考えるようになった。

けれども、取り入れることでピアノに繋がるのか、乳幼児期のこの時期に、本当に得られるものがあるのか、ピンとこなかったので学ぶことは先送りにしていた。

 

次男が生まれ「やっぱり我が子にも何かしてあげたい」と考えていた時、音脳リトミックを知り、「これだ!」と飛びつき、後に“音脳ピアノリトミック”・“音脳リトミック”の資格を取得。

実際、音脳リトミックの核である“音育児”、“音コミュニケーション”を子育てに取り入れることによって、これからの時代に必要と言われている感性や想像力、創造性が、我が子にも育ってきていると感じている。

 

さらに、子どもたちと関わっていく中で、音の間違いに気づかないお子さんも少なくないことから、耳と心の発達を意識して「絶対音感コーチメソッド」の認定校の資格も取得。

 

 

そして、自分が子育てしていく中で、また、たくさんの親子様と接していく中で、ヤル気や主体性、自主性、自己肯定感を高めるためには、お子様との関わり方がとても関係していると感じている。

自主性や自己肯定感を上げるために、お子様と、お母様をはじめとする子育てに関わる方へお伝えするために、コーチングや勇気づけも学んでいる。

〈資格・取得スキル〉

〈想い〉

子どもの自立が大事。

そのためには、大人の子どもへの接し方が大事。

お子さんの自立を促せるよう、また、おうちの方と自立の芽を伸ばしていけるように、コーチングを活かしたレッスンを行っています。

そして、何か一つと決めてチャレンジするのも、いろんなことにチャレンジし経験を増やすことも良いことだと思いますが、一つのことを継続することで未来の自分の自信となり、力となることを私は知っています。

未来ある子どもたちと子どもを育てる親御さんに、そのようなサポートもさせていただければと思います。